我が家には洗濯機がない

夏の始まり頃だっただろうか。洗濯機が壊れた。

以来、洗面台に水を溜めて洗濯をしているのだが無いなら無いでどうにかなるもので、手で洗う、手ですすぐ、手で絞る、という一連の作業にもすっかり慣れた。

ひとつだけ未だに慣れず、洗濯の度に衝撃を受けていることがある。水が黒く濁り、何やら油分まで浮いてくることだ。「オレ、こんな汚い!?」自分が身に付けていたものがこんなにも汚れているとは。毎度毎度、ボケ老人(失礼)のように初見の衝撃を喰らっている。

アウトドアで着用した衣服ならともかく、外界に触れていない下着や肌着だけでもあのドス黒い濁り様。生きてるだけでダークサイドかよ。暗黒成分出てる?

いや、きっと僕だけではない。タイムラインに現れる綺麗なあの人も、街で見かけた可愛いあの子も、手洗いをすりゃドス黒いんだ。人類みなドス黒い説。

洗濯機が壊れなかったら気付かなかった。

コーヒーミルもそうだ(突然)。僕は手で回す人力コーヒーミルを使っている。仕事が忙しい時なんかは挽き終わるまでが永遠のように感じる。最近では仕事が忙しくなくても感じる。加齢によりせっかちになっているのだろう(やかましいわ)。

そんなこともあり、長いこと電動ミルに憧れ続けてきた。

だが最近、あることに気がついて手動ミルの良さを再評価したところだ。豆が変わればミルを回した時の手応えも大きく変わることに気付き(遅くない?)そこに面白さを感じ始めたのだ。カリカリと小気味よく割れるもの。なんだか粘りの強いもの。固くて力の必要なもの。

手応えの違いによる味や風味の違いについては語る言葉を持ち合わせていないので控えるが、同じお店の同じ豆でもミルから感じる手応えが違う。機械に任せていては気付かなかったことだ。

さてと。とっ散らかった話をなんとか真面目な方面に着陸させたい。

効率を求めることで失うものは多いのではないだろうか。生身で接していたら感じられたことを見落としてはいないだろうか。そして恐ろしいのは、それらは失ったまま二度と取り戻せなくなるかもしれないということだ。

そこに目を向けるのが僕のライフワークであり「しないではいられないこと」なのだろう。動物から人間になった僕らが20万年紡いできたものの中に、現代に生きる人々がより良く生きるためのエッセンスがあると思っている。そうあって欲しい。

とは言え、

やっぱりちょっと洗濯機は欲しい。