ぼくのメンター三人衆

水木しげる。
ブッダ。
岡本太郎。
ぼくのメンター三人衆。

ぼくのメンターは、長いこと水木しげるだった。そこにブッダが加わった。最近、鳴り物入りで岡本太郎が新加入した。僕のメンター三人衆だ(センターポジは水木しげる)。

ぼくは学生の頃から自分で仕事をしていて、一度も会社勤めをしたことがない。自ら望んだことではあるが、頼れる先輩や上司はいない。自ずと本の中の人物に人生の指針を求めるようになった。

岡本さんとの付き合いはまだ浅いが、水木サンとブッダパイセンには随分と助けられた。3次元の世界で誰にも頼れない状況で、いつも気付きと助言を与えてくれた。

ブッダの教えは
リアルなライフハック

ブッダの教えの優しさの源泉は「人生は苦しいものだ」という前提にある。「人生は素晴らしい」なんていう軽薄な押し付けがないのがいい(むしろこれが人々の苦しさの原因だ)。

苦しくて辛いのがデフォルト。折り合いを付けてどうにか生きていくためのヒントをブッダは教えてくれた。

ブッダは実在した人間だ。居るかどうかも分からない神様じゃない。ブッダの教えは、実在した人間ががまとめ上げた人生を生き抜くためのライフハックなのだ。

HIIRAGI創業を支えた
水木サンの言葉。

水木サン(←水木しげるの一人称)は「幸福の七ヶ条」というものを提唱している。その第二条、第三条にはこう書かれている。

「しないではいられないことをし続けなさい」
「他人との比較ではない。あくまで自分の楽しさを追求すべし」。

この言葉に出会ったのは10年前。HIIRAGIを始めた頃だった。よく覚えていないけど、会社が傾き出して大変な時期だった気がする(そういうとこだぞ)。

自分で会社をやっていたけれど、いわゆる「好きなことを仕事に」はHIIRAGI事業が初めてだった。しんどい状況でも明るくいられたのはこの言葉のお陰だ。僕の座右の銘と言ってもいいだろう。

自分らしく生きることを説いた水木サンではあるが、ブッダと同じく人生の厳しさを伝えることも忘れていない。第五条には「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」と記されている。幸福の七ヶ条もまた、人生は甘くないという前提に立脚した生き抜く知恵なのだ。

南方の戦地で片腕を失い、戦後を文字通り腕一本で生き切った水木サン。その言葉には真理が満ちている。妖怪だって本当にいるのかもしれない。

死ぬ気で生きる
岡本太郎先輩

ぼくらはなぜ自身を他者と比べてしまうのか。なぜ誰かが決めた「こうあるべき」に合わせようとするのか。あなたはあなただ。他者目線で生きる限り、あるがままの自分と押し付けられた理想像のギャップに苦しみ続けることになる。

岡本太郎先輩は言う。
「それで生きていると言えるだろうか?」

岡本太郎先輩は変わり者のトップランナーだ。画一的な世の中で、あるがままの自分であることはすなわち「出る釘」(←岡本先輩は杭ではなく釘を使う)になるということだ。出る釘は打たれる。それは辛く苦しい。それでもそれが生きるということなのだと彼は言う。

ヒグマはヒグマであることを疑わない。岡本太郎は全身全霊で岡本太郎を生きている。彼の言葉の強烈さは、そのまま僕の推進力になった。

しないではいられないことを
し続けよう。

人生において苦しいことや辛いことは起こってしまう。だからこそ、自分ではコントロールできないことを気に病んでいるのは時間の無駄だ。

夢中になること。熱中すること。
他人の評価なんて関係ない。

しないではいられないことをし続けよう!

敬愛するHIIRAGI OUTFITTERSの細畑さんが、こんな素敵なことを言っていた。

「あなたを輝かせられるのはあなただけだ。」

我が家には洗濯機がない

夏の始まり頃だっただろうか。洗濯機が壊れた。

以来、洗面台に水を溜めて洗濯をしているのだが無いなら無いでどうにかなるもので、手で洗う、手ですすぐ、手で絞る、という一連の作業にもすっかり慣れた。

ひとつだけ未だに慣れず、洗濯の度に衝撃を受けていることがある。水が黒く濁り、何やら油分まで浮いてくることだ。「オレ、こんな汚い!?」自分が身に付けていたものがこんなにも汚れているとは。毎度毎度、ボケ老人(失礼)のように初見の衝撃を喰らっている。

アウトドアで着用した衣服ならともかく、外界に触れていない下着や肌着だけでもあのドス黒い濁り様。生きてるだけでダークサイドかよ。暗黒成分出てる?

いや、きっと僕だけではない。タイムラインに現れる綺麗なあの人も、街で見かけた可愛いあの子も、手洗いをすりゃドス黒いんだ。人類みなドス黒い説。

洗濯機が壊れなかったら気付かなかった。

コーヒーミルもそうだ(突然)。僕は手で回す人力コーヒーミルを使っている。仕事が忙しい時なんかは挽き終わるまでが永遠のように感じる。最近では仕事が忙しくなくても感じる。加齢によりせっかちになっているのだろう(やかましいわ)。

そんなこともあり、長いこと電動ミルに憧れ続けてきた。

だが最近、あることに気がついて手動ミルの良さを再評価したところだ。豆が変わればミルを回した時の手応えも大きく変わることに気付き(遅くない?)そこに面白さを感じ始めたのだ。カリカリと小気味よく割れるもの。なんだか粘りの強いもの。固くて力の必要なもの。

手応えの違いによる味や風味の違いについては語る言葉を持ち合わせていないので控えるが、同じお店の同じ豆でもミルから感じる手応えが違う。機械に任せていては気付かなかったことだ。

さてと。とっ散らかった話をなんとか真面目な方面に着陸させたい。

効率を求めることで失うものは多いのではないだろうか。生身で接していたら感じられたことを見落としてはいないだろうか。そして恐ろしいのは、それらは失ったまま二度と取り戻せなくなるかもしれないということだ。

そこに目を向けるのが僕のライフワークであり「しないではいられないこと」なのだろう。動物から人間になった僕らが20万年紡いできたものの中に、現代に生きる人々がより良く生きるためのエッセンスがあると思っている。そうあって欲しい。

とは言え、

やっぱりちょっと洗濯機は欲しい。

涙とともにパンを食べた経験がなければ、人生の本当の味わいはわからない。

あの芸術家も、ミュージシャンも、
インフルエンサーも、
メーカーの人も、ショップの人も、
アウトドアのすごい人も、
スポーツのすごい人も、
すごいけど意外と普通だ。

なんなら、
何かに突出している分、
他のところでポンコツな人も多い。

ぼくらと同じように不安を抱え、悩み、失敗もする。

ぼくはすごい人達のダメエピソードを聞き出すのが大好物で
すごい人達のダメさ加減を聞くと、ホッとするし、ニヤニヤする。

一方でダメエピソードを披露する本人たちも
とてもいい顔をしている。
カッコ悪い部分を曝け出し、
ありのままの自分になる心地良さがあるのだろう。

カッコ悪さを曝け出したい時があるのは
すごい人達だけじゃない。
凡人、一般人だって同様だ。

僕の周りにはなぜか
大人になってからウンコを漏らしたことのある人、
そのエピソードを嬉々として話す人が多い。
(僭越ながら僕もそのひとりだ)

人生における最大級の難局を乗り越えた彼らには
共通の独特な慈悲深さがある。
「そういうこともあるよね」と
他者の失敗を受け止め、優しく包み込んでくれる。

ゲーテはこう言った。
「涙とともにパンを食べた経験がなければ、
人生の本当の味わいはわからない。」

僕ならこう言う。
「涙とともにパンツを処分した経験がなければ、
人生の本当の味わいはわからない。」

そういう人に、わたしはなりたい。